「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
偶然耳にしたこの言葉が、男の脳内で反芻される。
「お母さん、猿なんて見ている場合じゃないよ。」
電車を乗り継ぎ、少し歩くと開けた土地に動物園のゲートが見えた。男はこの休日を動物園で過ごすことに決めたのだった。仕事の都合上、男は平日休みが多い。来園者の少ない平日の動物園は男にとって唯一の癒しであった。
入園ゲートを年間パスで通ると、初めに見えるのはサイだ。サイの硬そうな皮膚に男は目を奪われる。
平日の動物園に来るのは、幼い子供連れの母達が多い。あるいは暇を持て余した高齢者。大学生らしきカップルもちらほら見かける。一人で来ている人はたいてい片手に本格派のカメラを携えているが、男は常に肉眼を通した。
男は、サイに始まり、カンガルー、バク、ペリカンといった二軍選手を見ていった。エミューに至っては三軍だ。そしてゾウ、キリン、ライオンと花形選手を見終えると日本猿が姿を現した。
日本猿エリアには地上から数メートル高く、幾本かの木製の柱が建てられており、そこにネットやロープが張り巡らされている。来園者たちはその柱を少しずつ上る小さなニホンザルに目を奪われていた。
男もまた、その様子を眺めていた。その傍らにはゴリラコーナーを紹介する看板が立てられており、それを一人の、4,5歳ばかりであろう女の子がじっと見ていた。すぐ横にいる母らしき人物は私たちと同様、猿を眺めている。
しばらく看板を眺めていた少女はその母らしき人物に向かってこう言ったのだ。
「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
その後、ゴリラを見ても、カバを見ても、ペンギンを見ても、男の耳からその言葉が離れることは無かった。
「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
何がどうとはわからないが、男の頭にこびりついて離れないその言葉。
「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
家に帰ってからも、脳内でリフレインする。
「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
それから一晩経っても、二晩経っても、少女の幻影は呼びかける。
「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
「お母さん、猿なんか見ている場合じゃないよ。」
一週間目の夜、男は発狂した。