徒然なるままに~人生三角折主義~

あくびしてる猫の口に指突っ込むときくらいの軽い気持ちで見てください。

赤から出るブルー ~マヌケな鼻血どうこう~

 あの赤を見たとたん、私は本当にブルーになる。鼻から口へ伝う液体を感じたときにブルーは始まり、指先でとん、と触れて目視してブルーは極まる。あぁ、また鼻腔内から出血が起きたのか。

 私は子供のころから鼻血を出しやすい性質であった。鼻腔の粘膜が弱いのか知らんが日常的に鼻血を出していた。突然の出血に服や布団を汚すことも日常茶飯事であった。 

 そんな時代から十数年が経ち、数こそ減ったがそれでも年に10~15回程度は鼻血が出る。その度に私の気分は落ち込む。

 まず鼻血を確認したら、血液で周囲の物を汚さないよう、若干顔の角度を上げて、血液が垂れぬように細心の注意を払いながらティッシュを探す。まずこの姿がマヌケだ。無事にティッシュを見つけたら、ティッシュを小さく丸めて鼻に詰める。ティッシュを鼻に詰めた顔もまた、マヌケと言わざるを得ない。

 それからティッシュを鼻に詰めているとティッシュがチロチロと鼻をかすって、痒くてしょうがなくなる。すると詰めていたティッシュをすぐに外してしまうので、次から次へとティッシュを詰めなければならなくなる。結果として当然、ごみ箱はこんもりと一端に朱をまとった白の塊で山になる。それもまたマヌケなのだ。

 私は、鼻血を出すことほどマヌケさが露呈することはないと思っている。鼻血が出た人間の挙動というのはどこをとっても間が抜けている。

 いや、一口に鼻血と言っても、格闘家やボクサーが試合をして出した鼻血は別だ。男と男の熱い戦いの中で流れる鼻血には美しささえあるだろう。

 しかし、私のようなものが流す鼻血は心底汚いだけだ。花粉症で疼く鼻をかみすぎ、こすりすぎ、結果として出る鼻血は自己嫌悪を促しさえする。その発生原因からしてマヌケなのだから始末に負えない。

 「鼻血」という言葉さえもマヌケに感じる。単に鼻の中から出血しているだけのことにわざわざ「鼻血」とそれようの言葉を作る必要があるのだろうか。手から血が出ても「手血」とは言わない。口の中が切れて血が出ても、「口血」とは言わない。それなのに鼻からの出血だけは我が物顔で「鼻血」ときたもんだ。その見当はずれな自己中心っぷりはマヌケとしか言いようがない。

 以上のように、鼻血とは本当にマヌケな現象だと思う。しかし本当にマヌケなのはそんな鼻血に翻弄され続けている自分であるということも、わかっている。だから僕はもう二度と鼻血を出すまい。二度とあんなマヌケな目にはあうまい。そう思いながら、僕は鼻に詰められたティッシュを引き抜くのであった。

春が来た。バネが来た。泉が来た。そんな季節。

 春が来た。springが来た。英語で春はspring。しかし、springは日本語で春だけではなく、泉ともバネとも訳す。英語において春が来るとはバネがくることであり、泉がくることなのだろう。

 

 春が来た。あたたかな陽射しが訪れ、植物が芽吹き、桜がぱっと咲き誇る。長い冬の終わりは人々に活気をもたらす。出会いと別れの季節。

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 バネが来た。やわらかなバネ、指でぎゅっとつまみ、ばっと離すとどっかへ飛んでいく。長いバネがあるとぎゅっとつまみたくなる。そんでやっぱし飛んでいく。掃除すると見つかる。

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 泉が来た。えなりもきた。壽賀子もきた。角野は来なかった。スッキリにでなければならなかったから。えなりかずきさだまさしあいみょん。名前がひらがなだ。米津玄師は本名らしい。あいみょんは本名か?ほんみょんか?

 

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文字にまつわるエトセトラ 「縞々」「二酸化炭素とCO2」「書き順のどうでもよくなりっぷり」「為」「こざとへんとおおざと」

お題「これって私だけ?」

 「しましま」って感じで書くとなんか違和感あるの。「縞々」。なんか思ったより角ばってるし、何なの?いとへんに高いって。「しま」っぽさがないよ。なんでだよ。やりきれないよ。

 

 高校の時の話だけど、授業でなんかいろいろ重なったのよ。現代文で地球温暖化に対する文章読んだり、地学もあったし、日本史でも環境問題の話があったのかな、「二酸化炭素」って一時期死ぬほど書いた。画数多いよ!「二酸化炭素」。それをなんだい?アルファベットと数字で書けるって?「CO2」簡単だな!三画かよ!それでいいよ!もうずっとそれでいいよ!

 

 小学校の低学年くらいの時の話。書き順テストって週に一回あったの。その週に指定された範囲の漢字を覚えてくるんだけど、書き順も覚えなさいってね。それで、週に一回、班のメンバーで一つの漢字をリレー形式で書き順通りに書いていくの。黒板に。あれ凄いプレッシャー感じてたわ。間違えたら凄い責められそうで。そのプレッシャーのわりに、途中からの書き順のどうでもよくなりっぷりなんなの?高学年くらいからもうどうでもよくなったよね?しかもそれくらいで気づいた、世間的にも書き順って全然どうでもよいとされている!ネプリーグでも隅に「書き順は考慮しません」てきなこと書いてある!どうでもいいんかい書き順!

 

 あと「為」っていう字?最初、本当に苦手だったけど、慣れてきてから書くのなんかすっげー気持ち良いわ!最初大嫌い今は大好きこれなーんの字?「為」!正解!だよ!ありがとう「為」!そして「偽」!

 

 あと「こざとへん」と「おおざと」。(「隔」とか「部」のやつね。)どっちが左でどっちが右か一生覚えられるかい!

 

 

 

「かわいい」の魔力。「かわいい」は全てを肯定する。

 「かわいい」っていいよね。猫がかわいい。貫地谷しほりがかわいい。おじさんがかわいい。このシュシュかわいい。たんぽぽがかわいい。などなど、ありとあらゆるものが「かわいい」可能性を秘めてるのね。

 女子高生が数学かなんかのおじさん先生をかわいいと言うのと、僕が貫地谷しほりをかわいいと言うのと、お婆さんがたんぽぽをかわいいと言うのと、多分違う。でも全く違うわけでもない。全てのものの中に共通して存在する1つの魅力を「かわいい」と言うのかもしれないな。 

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 多分「かわいい」の原点は赤ちゃんにある。世の中の、ほとんど全ての人が赤ちゃんをかわいいと思うでしょ。それは何故かって二つあるんだ。

 一つは「未熟さ」。赤ちゃんは一人じゃ何にもできない。だから、見ている人間はそこから目が離せない。

 もう一つは「共感」。誰もが元々は赤ちゃんだった。だから記憶こそ無くとも必ずそこに共感が生まれる。だから愛おしくなる。

 「かわいい」っていうのはこの二つを満たしていることなんじゃないかな。逆にこれに反するもの、つまり「完璧」で「共感できない」もの。これは「美しさ」なんだな。そういうものに対して人が抱くのは尊敬や憧れで、遠い存在になる。 

 だから、僕は「かわいい」が好き。かわいいっていう感情は最強にその事物を肯定するから。「未熟さ」に対する肯定。「共感」という肯定。

 女子高生は何にでも「かわいい」っていう、なんて言われるけど、それって一番素敵なことだと思う。「かわいい」に対する感度の高さは、あらゆるものの魅力を感じ、肯定する力の強さだ。それはつまり、優しさだよ。「かわいい」は優しさの源なんだな。

 そんなわけで、皆さんぜひ、かわいい発見ライフをお送りください。

お題「どうしても言いたい!」