船虫男と噴水女#1
船虫の①
ぼくが街を出歩くのは闇が世界を支配する深夜2時過ぎ。
本当はぼくだって堂々と太陽の下を歩きたいんだけど、みんなが大騒ぎをするから、それはできない。
ぼくの身体は船虫だから。
上から押しつぶされたみたいに平たくて、いくつもの節に分かれた胴体。頭からぴんっと伸びた触角。体から生えている7対の歩脚のうちお尻にある1対は醜く二又にわかれている。
見た目は海岸の岩にはべりつくフナムシそのもの。違っているのはその大きさ。フナムシは最大でも5cmくらいなんだけど僕は全長171cm。成人男性の平均身長とちょうど同じくらい。
ぼくがこんな姿になってしまったのは三年前のある日。ある朝目覚めると、人間サイズのフナムシになっていた。
自分の体がフナムシになっていると知って、意外と驚かなかったのは幼い頃にカフカの「変身」を読んだことがあったからかもしれない。
「変身」の中で毒虫になってしまったグレゴール・ザムザは驚くほど静かに現状を受け入れる。まだ幼かった私がカフカが何を書きたかったを理解することはできなかったが、突然に訪れた非日常の中であまりにも現実的なことを考える主人公の姿だけが印象に残っていた。
幸い私はザムザと違い7対の歩脚で地面を這い動くことができたし、亡き父が残した郊外の一戸建てに住んでいたからどうにか生活していくことができた。
フナムシは雑食性で食べ物には困らなかったし、人間だったころに持ち合わせていた様々な欲求も消えていたのでとくに苦労もなかった。
驚いたのはフナムシの姿でありながら、人間の声が発せられること。どういう仕組みなのかはわからないけど、話そうと思うと頭の裏の方から声が出た。
もちろん、話す相手なんかいないんだけど。